3/22【第二八回】澁澤龍彥と教育(シンポジウム)
◆講演者
安西晋二(國學院大學文学部)
安西晋二(國學院大學文学部)
大野ロベルト(法政大学国際文化学部)
茂木謙之介(東北大学文学部)
◆企画趣旨(司会:跡上史郎[熊本大学教育学部])
公教育からは遠いように見える澁澤龍彥であるが、これまでまったく無縁だったわけではない。井上博夫「渋澤龍彦「神のデザイン」の授業から」(1997)は「「元気のでる授業」を創造したい」と『玩物草紙』(1979)を扱っている。また、出口汪(2014)は、澁澤「玩具のための玩具」(1980)に拠る京都大学入試問題をとりあげ、「常識にとらわれない『自由な発想』とは何かを教えてくれる」とする。日本生涯学習総合研究所・編『これからの時代に求められる資質・能力をふまえたテストづくり:大学入試篇・国語』(2016)は同じく「玩具のための玩具」を用いた島根大学入試問題を「これからの時代」の国語の良問として紹介している。 大学等における澁澤龍彥の研究に加えて、教育の場面においても澁澤龍彥を取り上げる試みは続けられているが、その取り組みまだ端緒についたばかりである。これまでとは異なる発想が要求される澁澤龍彥の「教育」の困難と可能性について考えてみたい。
◆各題目と要旨
◇安西晋二「国語教育のなかの澁澤龍彥─教科書教材としての「蟻地獄」再読─」
2005年、明治書院の教科書『精選現代文』に澁澤龍彥「蟻地獄」が掲載された。単元名「様々な文章」のひとつとして、正岡子規「ベースボール」、樋口一葉「みづの上日記」に続き「蟻地獄」が並べられている。教科書はすでに新課程に変わった。明治書院の教科書にも「様々な文章」という単元はない。ただ、「一種の観察記録」でありながらも、そこで展開される「自由な発想による独自な解釈や抽象的な思考」(「単元の解説」)を教材として評価された「蟻地獄」は、現在の教育現場においても読まれる意義がまだあるのではないだろうか。文章の多様さや自己表現の手がかりは、常に教材に求められている。澁澤作品の多くは、教育的とはいいがたい面も確かにあろう。だが、20年前に発表者自身が執筆した「蟻地獄」の指導案を批判的に見直しつつ、澁澤作品には教材としていかなる可能性があるか、検討してみたい。
◇大野ロベルト「澁澤龍彥のいる文学史」
文学史とは何であろうか? 文学研究はともすると特定の文化や時代に縛られ、そこから逃れようとすれば「世界文学」などという大仰にもうつる用語を必要とする。しかし研究という領域をすこしでも離れ、一人の読者に立ち戻ってみれば、私たちは時空を超えて自由奔放に文学に触れ、各人の文学史を編みながら作品を受容している。それどころか多くの場合には、文学を他の表現形式と意識的に区別することさえしないだろう。その意味で多岐にわたった澁澤龍彥の執筆活動は、興味の赴くまま芸術の三昧境に遊んだ一読者たる澁澤の、率直な肖像画となっている。「澁澤龍彥のいる文学史」をたどってみれば、研究というフィルターによって削ぎ落とされがちな文学の「現実」が見えてくると期待される所以である。
◇茂木謙之介「文化史教育と澁澤龍彥─政治・表現・サブカルチャー─」
澁澤龍彥は奇しくも「昭和」の時代に収まる人生を、主に東京近辺を中心に歩んだこともあってか、特に成人後の敗戦後の様々な文化的・社会的トピックと重なり合う運命をたどっている。その事は同時代社会の文化史教育を考える際に澁澤をその視点として設定することをも可能にしている。更にその死後における受容とその〈鬼子〉たちのもたらしたものは「現代」まで射程に文化を論じる際に見逃しがたい影響を与えていることを考えれば、戦後のみならず現代文化史として澁澤が参照項となるのは言うまでもない。歴史を問う現在という時空間そのものが問題となるならば、さまざまなかたちで〈非現実〉を志向するテクストの盛り上がる現在、もはや異端から王道へと躍り出た澁澤の軌跡は、文化史教育のなかでどう扱い得るのか、本報告ではその可能性を追求したい。
◆開催日時
2024年3月22日(土)、13:30~
※ご参加をご希望の方は、3月20日(木)までに、Googleフォームよりお申し込みください。確認次第ご連絡いたしますので、フォーム記入翌日の23時までに返信がなかった場合、大変お手数をおかけいたしますが再度ご連絡ください。
茂木謙之介(東北大学文学部)
◆企画趣旨(司会:跡上史郎[熊本大学教育学部])
公教育からは遠いように見える澁澤龍彥であるが、これまでまったく無縁だったわけではない。井上博夫「渋澤龍彦「神のデザイン」の授業から」(1997)は「「元気のでる授業」を創造したい」と『玩物草紙』(1979)を扱っている。また、出口汪(2014)は、澁澤「玩具のための玩具」(1980)に拠る京都大学入試問題をとりあげ、「常識にとらわれない『自由な発想』とは何かを教えてくれる」とする。日本生涯学習総合研究所・編『これからの時代に求められる資質・能力をふまえたテストづくり:大学入試篇・国語』(2016)は同じく「玩具のための玩具」を用いた島根大学入試問題を「これからの時代」の国語の良問として紹介している。 大学等における澁澤龍彥の研究に加えて、教育の場面においても澁澤龍彥を取り上げる試みは続けられているが、その取り組みまだ端緒についたばかりである。これまでとは異なる発想が要求される澁澤龍彥の「教育」の困難と可能性について考えてみたい。
◆各題目と要旨
◇安西晋二「国語教育のなかの澁澤龍彥─教科書教材としての「蟻地獄」再読─」
2005年、明治書院の教科書『精選現代文』に澁澤龍彥「蟻地獄」が掲載された。単元名「様々な文章」のひとつとして、正岡子規「ベースボール」、樋口一葉「みづの上日記」に続き「蟻地獄」が並べられている。教科書はすでに新課程に変わった。明治書院の教科書にも「様々な文章」という単元はない。ただ、「一種の観察記録」でありながらも、そこで展開される「自由な発想による独自な解釈や抽象的な思考」(「単元の解説」)を教材として評価された「蟻地獄」は、現在の教育現場においても読まれる意義がまだあるのではないだろうか。文章の多様さや自己表現の手がかりは、常に教材に求められている。澁澤作品の多くは、教育的とはいいがたい面も確かにあろう。だが、20年前に発表者自身が執筆した「蟻地獄」の指導案を批判的に見直しつつ、澁澤作品には教材としていかなる可能性があるか、検討してみたい。
◇大野ロベルト「澁澤龍彥のいる文学史」
文学史とは何であろうか? 文学研究はともすると特定の文化や時代に縛られ、そこから逃れようとすれば「世界文学」などという大仰にもうつる用語を必要とする。しかし研究という領域をすこしでも離れ、一人の読者に立ち戻ってみれば、私たちは時空を超えて自由奔放に文学に触れ、各人の文学史を編みながら作品を受容している。それどころか多くの場合には、文学を他の表現形式と意識的に区別することさえしないだろう。その意味で多岐にわたった澁澤龍彥の執筆活動は、興味の赴くまま芸術の三昧境に遊んだ一読者たる澁澤の、率直な肖像画となっている。「澁澤龍彥のいる文学史」をたどってみれば、研究というフィルターによって削ぎ落とされがちな文学の「現実」が見えてくると期待される所以である。
◇茂木謙之介「文化史教育と澁澤龍彥─政治・表現・サブカルチャー─」
澁澤龍彥は奇しくも「昭和」の時代に収まる人生を、主に東京近辺を中心に歩んだこともあってか、特に成人後の敗戦後の様々な文化的・社会的トピックと重なり合う運命をたどっている。その事は同時代社会の文化史教育を考える際に澁澤をその視点として設定することをも可能にしている。更にその死後における受容とその〈鬼子〉たちのもたらしたものは「現代」まで射程に文化を論じる際に見逃しがたい影響を与えていることを考えれば、戦後のみならず現代文化史として澁澤が参照項となるのは言うまでもない。歴史を問う現在という時空間そのものが問題となるならば、さまざまなかたちで〈非現実〉を志向するテクストの盛り上がる現在、もはや異端から王道へと躍り出た澁澤の軌跡は、文化史教育のなかでどう扱い得るのか、本報告ではその可能性を追求したい。
◆開催日時
2024年3月22日(土)、13:30~
※ご参加をご希望の方は、3月20日(木)までに、Googleフォームよりお申し込みください。確認次第ご連絡いたしますので、フォーム記入翌日の23時までに返信がなかった場合、大変お手数をおかけいたしますが再度ご連絡ください。