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4/26【第二九回】澁澤、ニーチェ、現代思想(跡上史郎)

◆発表者   跡上史郎 ◆発表題目   澁澤、ニーチェ、現代思想 ◆発表要旨   日本におけるニーチェの受容は明治の高山樗牛に始まり、大正の阿部次郎や和辻哲郎らが続いている。文学者においては、芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」の標題等、太宰治の多いとは言えない蔵書中の最大のものが「ニイチェ全集」であったこと、また詩歌方面における斎藤茂吉や萩原朔太郎らへの影響が知られていよう。  時代が下って澁澤龍彥もまたニーチェに惹かれた文学者の一人であるが、その受容は現代のデカンショとも言うべきフーコー、ドゥルーズ、デリダらによる現代思想隆盛下のものであり、ニーチェこそは現代思想における最大の震源地の一つであった。澁澤のニーチェ像もまた旧来の個人主義、動物的本能、インモラリスト等に重なりつつも、別の焦点を志向する。『記憶の遠近法』(大和書房、1978・4)の題名はニーチェに因んでおり、「遠近法」はニーチェの著作中に頻出する言葉である。澁澤はその最初の単行本『サド復活』(弘文堂、1959・9)でサドとニーチェを結びつけ、中期の「ニーチェ雑感」は『現代思想  総特集=ニーチェ』(1976・11臨時増刊号)の巻頭を飾ったものであり、晩年の『澁澤龍彥コレクション1  夢のかたち』(河出書房新社、1984・11)を編むにあたっては、「ニーチェなんぞが意外に夢について多く発言している」と、一貫してニーチェへの興味を示している。  しかし、その一方で、澁澤はドゥルーズやデリダのニーチェ論を読むことができたにも拘らず、参照した形跡はない。「偶像」化した現代思想へのこの上なくエレガントな一撃として今も語種となっている「リゾームについて」(『國文學』1984・3)の背景にあるのは何か。ポストモダニズムの勃興と隆盛の時代背景において、澁澤はニーチェに関する本の何を読み、どのように書き、いずこへ到ったのか。 ◆発表日時   2025年4月26日(土)、 14:00 ~  ※ご参加をご希望の方は、 Googleフォーム よりお申し込みください 。

【第二八回】澁澤龍彥と教育(シンポジウム)

◆講演者  安西晋二(國學院大學文学部)  大野ロベルト(法政大学国際文化学部)  茂木謙之介(東北大学文学部) ◆企画趣旨(司会:跡上史郎[熊本大学教育学部])  公教育からは遠いように見える澁澤龍彥であるが、これまでまったく無縁だったわけではない。井上博夫「渋澤龍彦「神のデザイン」の授業から」(1997)は「「元気のでる授業」を創造したい」と『玩物草紙』(1979)を扱っている。また、出口汪(2014)は、澁澤「玩具のための玩具」(1980)に拠る京都大学入試問題をとりあげ、「常識にとらわれない『自由な発想』とは何かを教えてくれる」とする。日本生涯学習総合研究所・編『これからの時代に求められる資質・能力をふまえたテストづくり:大学入試篇・国語』(2016)は同じく「玩具のための玩具」を用いた島根大学入試問題を「これからの時代」の国語の良問として紹介している。 大学等における澁澤龍彥の研究に加えて、教育の場面においても澁澤龍彥を取り上げる試みは続けられているが、その取り組みまだ端緒についたばかりである。これまでとは異なる発想が要求される澁澤龍彥の「教育」の困難と可能性について考えてみたい。 ◆各題目と要旨 ◇安西晋二「国語教育のなかの澁澤龍彥─教科書教材としての「蟻地獄」再読─」  2005年、明治書院の教科書『精選現代文』に澁澤龍彥「蟻地獄」が掲載された。単元名「様々な文章」のひとつとして、正岡子規「ベースボール」、樋口一葉「みづの上日記」に続き「蟻地獄」が並べられている。教科書はすでに新課程に変わった。明治書院の教科書にも「様々な文章」という単元はない。ただ、「一種の観察記録」でありながらも、そこで展開される「自由な発想による独自な解釈や抽象的な思考」(「単元の解説」)を教材として評価された「蟻地獄」は、現在の教育現場においても読まれる意義がまだあるのではないだろうか。文章の多様さや自己表現の手がかりは、常に教材に求められている。澁澤作品の多くは、教育的とはいいがたい面も確かにあろう。だが、20年前に発表者自身が執筆した「蟻地獄」の指導案を批判的に見直しつつ、澁澤作品には教材としていかなる可能性があるか、検討してみたい。 ◇大野ロベルト「澁澤龍彥のいる文学史」  文学史とは何であろうか? 文学研究はともすると特定の文化や時代に縛られ、そこから逃れようとすれば「...

【第二七回】澁澤龍彥が語る怪異、および「護法」における身体と空間(安西晋二)

  ◆発表者  安西晋二 ◆発表題目   澁澤龍彥が語る怪異、および「護法」における身体と空間 ◆発表要旨  澁澤龍彥は、作家活動を通じて、幽霊や妖怪、怪物などのさまざまな怪異譚を語ってきたともいえる。これらは、いかなる文脈を形成していただろうか。  澁澤の作家活動のなかで、『思考の紋章学』(河出書房新社、1977.5)は高く評価されてきた。その根底には、鮮やかに表現された「オブジェ志向」や、語る「私」の「変貌」に見られる、後年の小説群に至る萌芽が指摘できるだろう。澁澤自身の発言、および巖谷國士や浅羽通明らの批評によってそれは確認できる。時期的な面においても、評論・エッセー主体の活動から小説中心へと移りゆく中間的な地点にある『思考の紋章学』には、幽霊や妖怪などの怪異について扱っているエッセーが多い。そこで『思考の紋章学』をひとつの始点としながら、その前後にわたり、澁澤による怪異をめぐる文脈を整理してみたい。  また、「護法」(「海燕」1985.5)は、怪異と身体・空間(とりわけ鎌倉という場所)が相互に関連し合うテクストとなっている。澁澤による怪異文脈の再検討の帰結として、「護法」の位置付けを試みる予定である。 ◆発表日時   2024年8月24日(土)、14:00~ ※ご参加をご希望の方は、8月22日(木)までに、 Googleフォーム よりお申し込みください。確認次第ご連絡いたしますので、フォーム記入翌日の23時までに返信がなかった場合、大変お手数をおかけいたしますが再度ご連絡ください。

【第二六回】「幻想文学としての「体験」:澁澤龍彥『玩物草紙』とその周辺」(跡上史郎)

◆発表者  跡上史郎 ◆発表題目  幻想文学としての「体験」:『玩物草紙』とその周辺 ◆発表要旨  澁澤龍彥は先行するテクストのコラージュによって自らのテクスト を織りなす書き手と目されている。一方『玩物草紙』(朝日新聞社 、1979・2)は、それまでほとんど自分の「体験」を語ってこ なかった澁澤龍彥が、幼年期を中心に「体験」を語り始めものであ る。振り返ってみるにデビュー作「撲滅の賦」(1955) も自らの恋愛「体験」をベースとしたものであり、「東京感傷生活 ふたたび焼跡の思想を」(1964)のような単行本未収録作で「 体験」を大いに語っているケースもあり、遺作『高丘親王航海記』 にも幼児期の「体験」が組み込まれている。しかし、『玩物草紙』 中の「体験」の一部は、幼い頃の「体験」である以上にそれにまつ わる記憶の錯誤と言うべきものであり、これは「体験」 そのものの意味の再考を促すものとも言える。澁澤龍彥にとって「 体験」とは何か、その意味づけの変遷はどのようなものか、それは 先行テクストのコラージュとどのように関わっているのか、なるべ く多くの事例を参照し考察することを目指す。 ◆発表日時  2024年7月27日(土)、14:00~ ※ご参加をご希望の方は、7月25日(木)までに、 Googleフォーム よりお申し込みください。確認次第ご連絡いたしますので、翌日の22時までに返信がなかった場合、大変お手数をおかけいたしますが再度ご連絡ください。

【第二五回】「孤伏澤つたゐ『兎島にて』をめぐって」(孤伏澤つたゐ)

◆講演者  孤伏澤つたゐ ◆講演で扱われる書籍 〈あらすじ/本の紹介〉 『兎島にて』 「龍を食ったぜ」。  ある日、兎が棲む島に流れ着いた虎は、そううそぶいて、旅の物語を語り始める。  かつて魔法使いと旅をしたおちいさいひとを祖にもつ友人や、蓮を見れば黒こげにしてしまう地獄犬、火山の火口からあらわれる黄金の大伽藍のごとき男――旅の仲間たちと赤道を目指して船出し、水族館、火山を経めぐって、自身のアンチポデスと名乗る龍と、虎は出会う。  ドラコニアのかけらを集めてコラージュした幻想小説。  2024年が辰年だったので作ろうと思い立った物語です。  澁澤作品では『高丘親王航海記』をメインに、『マドンナの真珠』『華やかな食物誌』『ねむり姫』『鳥と少女』他、『指輪物語』(J.R.R.トールキン著・瀬田貞二訳)『類推の山』(ルネ・ドーマル著・巖谷國士訳)『海と夕焼』(三島由紀夫)などの物語の要素を織り込みつつ、澁澤と交友関係のあった人々をモデルに、短い冒険物語を作りました。 ◯参考文献(一部) 『龍彥親王航海記』礒崎純一・白水社 『紋章と時間: 諏訪哲史文学芸術論集』諏訪哲史・国書刊行会 『旅の仲間 澁澤龍彥・堀内誠一往復書簡』澁澤龍彥・堀内誠一 巖谷國士編・晶文社 『三島由紀夫と澁澤龍彥(三島由紀夫研究)』鼎書房 『澁澤龍彥との日々』澁澤龍子・白水社 『澁澤龍彥 ドラコニアの地平』世田谷文学館・平凡社 他 〈著者略歴〉  1987年9月5日生まれ。中学生の時、地元の書店で河出文庫版『黒魔術の手帖』を買い、現在まで澁澤龍彥の本を読みあさっている。  BL短歌誌『共有結晶vol.1~3』(2012年~2015年)に参加。2014年ころから個人で文学フリマなどを中心に、同人誌を作って頒布している。2018年『迎え火』で第2回Kino-Kuni文学賞大賞、2020年『首輪とロマンス』でpixiv百合文芸2佳作。2023年リトルプレス日々詩編集室から『ゆけ、この広い広い大通りを』を刊行。  幻想文学・ファンタジー小説を主に書きながら、地方(地元)で生きるひとびとの生きづらさや連帯についての物語も書いている。  2024年1月、『兎島にて』を私家版として刊行。澁澤龍彥が好き。 ◆講演日時  2024年5月12日(日)、14:00~(日曜日の開催)  ご参加をご希望の方は、2024年5月1...

【第二四回】「澁澤龍彥と金井美恵子:「母子像」の構造および反転のイメージから」(安西晋二)

◆発表者  安西晋二 ◆発表題目  澁澤龍彥と金井美恵子:「母子像」の構造および反転のイメージから ◆発表要旨  澁澤龍彥と金井美恵子とのあいだには、少なくとも1970年代には交流が始まっていたようだ。『澁澤龍彥をめぐるエッセイ集成』にも、澁澤との記憶を語った金井の文章が複数収録されている。それに対し、澁澤から金井への言及はほとんど見当たらない。そのなかで金井美恵子の創作を対象とした、唯一といってもよい文章が、「金井美恵子『兎』書評」(「文藝展望」第5号1974.4/『貝殻と頭蓋骨』所収)であろう。ただし、ここで澁澤は、表題作の「兎」ではなく、「人間関係やイメージの夾雑物が少なく、自己と他者の関係が、複雑な構造を見せながら、それだけですっきりと際立っているような作品」として「母子像」を高く評価した。また、この「母子像」は、近親相姦を描きつつ、娘が母へ、父が息子へとイメージの反転が描かれている。「兎」も、父と娘の近親相姦的な内容であり、かつ類似した反転イメージを読み取れるが、澁澤はそこには言及しなかった(むしろ、「母子像」や「愛あるかぎり」に比べ、「兎」は「完成度から言えば前記の諸作に劣る」とまでされている)。  本発表では、このような澁澤龍彥による金井作品の評価と、澁澤作品を「お話し」と語る金井美恵子の評価を対照させつつ、両者の創作における接点を検討したい。そこから、澁澤龍彥と他作家の比較研究というようなテーマに向けた、問題提起的な発表を進めていく予定である。 ◆発表日時  2024年3月3日(日)、14:00~  ご参加をご希望の方は、2024年3月1日(金)までに、 Googleフォーム よりお申し込みください(3月2日午後12時までに返信がない場合、大変お手数をおかけいたしますが、再度のご連絡をお願いいたします)。

【第二三回】「澁澤龍彥の博物誌:『夢の宇宙誌』を中心に/M・C・エッシャー篇」(跡上史郎)

◆発表者  跡上史郎 ◆発表題目  澁澤龍彥の博物誌:『夢の宇宙誌』を中心に/M・C・エッシャー篇 ◆発表要旨  本発表は、前回の花田清輝篇の続きである。花田清輝が『復興期の精神』表紙画に用いたのはマックス・エルンスト『森』の模写だった。一方、澁澤龍彥はそれまで未知の存在だったM・C・エッシャーの『きずな』を『夢の宇宙誌』表紙に採用した。それはなぜか? エッシャーとの邂逅は澁澤に何をもたらしたのか? 美術出版社の雲野良平が澁澤に提供したエッシャー関連資料とは? ◆発表日時   2023年12月17日(日) 、 14:00 ~   ご参加をご希望の方は、12月15日(金)までに、 Googleフォーム よりお申し込みください。

【第二二回】「澁澤龍彥の博物誌:『夢の宇宙誌』を中心に/花田清輝篇」(跡上史郎)

◆発表者  跡上史郎 ◆発表題目  澁澤龍彥の博物誌:『夢の宇宙誌』を中心に/花田清輝篇 ◆発表要旨  『夢の宇宙誌』(1964)に花田清輝の名前があることについては、すでに藤井貴志『〈ポストヒューマン〉の文学:埴谷雄高、花田清輝、安部公房、そして澁澤龍彥』(国書刊行会、2023・2)が注意を促しているものの、それ以上は追求されていない。ならば自分で追いかけてみよう!初期澁澤は花田清輝の何に衝撃を受けたのか?澁澤はなぜ花田を博物誌で捉えようとしたのか? ◆発表日時  2023年11月4日(土)、14:00~  ご参加をご希望の方は11月2日(木)までに Googleフォーム よりお申し込みください。

【第二一回】『澁澤龍彥コレクション』全三巻とその時代(劉佳寧)

◆発表者  劉佳寧 ◆発表題目 『澁澤龍彥コレクション』全三巻とその時代 ◆発表要旨  『澁澤龍彥コレクション』全三巻(『夢のかたち』『オブジェを求めて』『天使から怪物まで』)は、1984年11月から翌年6月にかけて河出書房新社から刊行された、主に引用の断片によって構成された書物である。ギリシア・ローマの古典から現代諸国の文学作品まで、小説、詩から日記、エッセー、説話、コント、哲学書まで、領域を横断する浩瀚なコレクションだったというイメージが強い。巖谷國士の述べたように、この特異な書物は、「まさに引用と借用をエッセーや小説の大きな武器としてきた澁澤龍彥――しかも古今の好みの作家系列の発見と集成をこころみつづけてきた澁澤龍彥にしてはじめて可能になった、きわめて澁澤龍彥的な、稀有のコレクションを構成しているといってよいもの」(「解題」『澁澤龍彥翻訳全集』別巻1)なのである。 担当編集は当時河出書房新社に務めた詩人の平出隆(1950―)で、本シリーズの企画及び編集現場の詳細は二つのインタビュー「悠々と自分をひらく――物語からコレクションへ」と「胡桃の中と外」に綴られていた。だが、このシリーズを同時代の読者がどのように捉えたのか、従来の選集の形式がどのように『澁澤龍彥コレクション』に影響を与えたのかはまだ明らかにされていない。  本発表では、まず『澁澤龍彥コレクション』を同時代の選集に関する言説の中に位置付けたい。また、澁澤蔵書目録と照らし合わせながら、澁澤における「引用」「蒐集」の思考を踏まえて、『澁澤龍彥コレクション』はどのように編まれたのかについて考察する。 ◆発表日時  2023年9月23日(土)、15:30~  ご参加をご希望の方は9月21日(木)までに Googleフォーム よりお申し込みください。  

【第二〇回】 無彩色(モノクローム)の夢と、その静けさ:江戸川乱歩「火星の運河」と一九二〇‐三〇年代のテクスト(杉浦楓太)

◆発表者  杉浦楓太 ◆発表題目 無彩色(モノクローム)の夢と、その静けさ  ――江戸川乱歩「火星の運河」と一九二〇‐三〇年代のテクスト ◆発表要旨  江戸川乱歩の掌篇「火星の運河」(『新青年』1926・4)については、韓(2006); セス(2019)などで、同時代の無声映画との関連性が論じられている。確かに、「灰色の世界」、「音も匂も、触覚」もない、といった記述からは、同時代の無声映画との類似を見て取れる。しかし、同時代において「灰色の世界」であり、「音も匂も、触覚」もなかったのは、無声映画だけであったのか。  「火星の運河」の結末部には大きな異同があるが、語り手の「私」が目覚め、夢であることを示すことは一致する。ここで同じ乱歩の「押絵と旅する男」(『新青年』1929・6)を参照すると、「夢の中の景色は、映画と同じに、全く色彩を伴はぬものである」と、映画と夢とを同一視する言説を確認できる。こうした見解は、乱歩に固有のものではなかった。  金(2021)は、芥川龍之介の「死後」(『改造』1925・9)における夢の色彩について、同時代の心理学の言説の受容の観点から論じている。本発表では、同時代の他の文芸テクストも射程に入れ、議論の拡充を図りたい。また、同時代の夢に関する言説において、視覚の前景化がしばしば指摘されることにも留意し、無声映画と接続されてきた「音も匂も、触覚」もないという本文の記述を、夢を直接的に描いたものとして読み替えたい。 【参考文献】 ・韓程善(2006)「江戸川乱歩と映画的想像力:「火星の運河」を中心に」(『比較文学』48巻) ・セス・ヤコボウヴィッツ(2019)「江戸川乱歩における閉所嗜好症と視線」(石川巧ら〔編〕『江戸川乱歩新世紀:越境する探偵小説』〔ひつじ書房〕所収) ・金香花(2021)「芥川龍之介「死後」試論:夢中の〈僕〉をめぐって」(『跨境:日本語文学研究』13巻1号) ◆発表日時  2023年7月29日(土)、14:00~  ご参加をご希望の方は7月27日(木)までに Googleフォーム よりお申し込みください。